フロリダで事故、ニューメキシコでも住民の反対で演習延期に続いて、ハワイの2空港でもオスプレイの訓練中止のニュースが。米軍はオスプレイの沖縄配備を強行しようとしているが、米国内から追い出された厄介者の受け皿(演習場)は、もはや沖縄と日本にしかないのが本音なのかも?
そこでフト「日本列島には貴方が売りつけた原発が54基もありますので」と、原発上空を飛ぶオスプレイを思った。
アメリカ本土では原発上空を航空機が飛ぶことは禁止されていて、原発周辺には地対空ミサイルまで配備されているらしいが、おそらく属国日本に対してはそんなことはお構いなしだろうと調べてみたら、事実そうだった。そればかりか、すでに米軍は日本の原発上空で演習を行っていて事故まで起こしていたのだ。
24年前の1988年6月25日に、伊方原発(愛媛県伊方町)直近で米軍普天間基地所属の海兵隊輸送ヘリコプター(オスプレイはこの後継機)が墜落した。瀬戸内海方面からきたヘリコプターが伊方原発を超え、原発のすぐ南側の山の斜面に激突、反動で山の反対側へ落下した。原発側に落下していたら大惨事は免れなかっただろう。原子炉を直撃しなくても送電線や電源施設にダメージを与えるだけでも大事故に直結することは、福島第一原発事故が証明済みである。
墜落した伊方原発周辺の山頂の標高150m前後というから、かなりの低空で演習飛行していた事がわかる。海兵隊の輸送ヘリの訓練内容は、わずかな平地に兵員を強襲上陸させるので、かなりの低空でないと訓練の意味がないというわけだ。民間機はもちろん自衛隊機がこの高度を飛んだら大問題になる。この原発の周辺ではこれまでに幾度となく米軍機が墜落もしくは不時着している。さらに「原発は上空から目立つので、訓練の標的にされやすい」という驚くべき証言まである。
まさに「米軍は日本を守ってくれる」のでなく、米軍が日本の国土を傍若無人に飛び回り、日本の国民を再び原発事故の恐怖にさらそうとする張本人であることが分かる。
2012年8月14日火曜日
2012年8月7日火曜日
息子の弁当箱
東日本大震災で亡くなった息子の弁当箱を発見した両親
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母親は弁当箱が空なのを確認し、「きれいに食べている」と嗚咽(おえつ)したという。まだ24歳の息子を突然亡くした失意のどん底でも、最後にちゃんとご飯が食べられたかどうかが気になり、空の弁当箱に安堵(あんど)する。その親心に胸が締め付けられ、17年前に取材したある弁当箱を巡る物語を思い出した。
1945年8月6日に原子爆弾が投下された広島の惨状を伝える広島市の「広島平和記念資料館」(原爆資料館)に展示されている「滋君のお弁当箱」だ。
滋君のお弁当箱(広島原爆資料館保管) |
93年から94年にかけて、米国のスミソニアン協会航空宇宙博物館は、95年の太平洋戦争終戦50年に向けて、記念企画展の準備を進めていた。企画展は原爆の開発から投下までの経過を追うもので、スミソニアン博物館は広島市に原爆資料館が保管する被爆資料の貸し出しを依頼していた。広島に来て被爆資料を見学したスミソニアン博物館の担当者が、強く貸し出しを望んだのが「シゲルズ ランチボックス」(滋君のお弁当箱)だった。
建物疎開に動員されていた旧制中学2年の折免(おりめん)滋君(当時13歳)は、爆心地から約500メートルの所で同級生らとともに被爆し、母親が作った弁当をおなかに抱えて死んだ。中身がきれいに詰まったまま真っ黒に炭化した弁当箱は、原爆資料館の中でも最もよく知られた展示品の一つだ。
「滋君のお弁箱が海を渡る」とマスメディアは色めき立ち、当時、広島支局に勤務していた私も貸し出しが決まるのを待ち望んだ。しかし広島市は「被爆者が反対している」となかなか決断しない。反核運動でよくメディアに登場する人々の顔が浮かんだ。「いったい誰が反対しているのか」。原爆資料館に取材すると意外な答えが返ってきた。弁当箱を寄贈した滋君の母シゲコさん(当時86歳、故人)だったのだ。
反対の理由を聞こうと自宅を訪れた私に、高齢で弱った体から言葉を絞り出すように語った。「育ち盛りの子どもが弁当も食べられんと殺された。あの弁当箱は私にとって滋そのもの。滋を敵国で見せ物にするのは止めてください」
シゲコさんは原爆で焼け野原になった街を歩き回り、骨だけになった滋君を見つけた。息子だと分かったのは、骨の下の弁当箱に「折免」と書いてあったからだ。
涙ながらに語るシゲコさんを見て、米国を「ピカを落とした国」と敵視する被爆者を、どこかで「時代遅れ」と思っていた自分を恥じた。息子を失った母親の無念をないがしろにして大博物館の企画に参画しても、それが「ヒロシマの心」と言えるはずがないとようやく気付いたのだ。
94年1月、「記者の目」でこの話を書いたが、その中で書けなかったことがある。シゲコさんが大切な弁当箱を原爆資料館に寄贈した動機だ。てっきり核兵器廃絶を訴えるためだと思っていたが、もっと母親らしい素朴な感情からだった。
シゲコさんは、弁当箱をずっと自宅の神棚に飾っていた。終戦後、世の中が豊かになるにつれ、近所の川には食べ物がたくさん捨てられるようになった。「もっと食べ物を大事にしてほしい。滋は粗末な弁当も食べられず死んだのに」との思いが募り、弁当箱を神棚から降ろして原爆資料館に託す気になったのだという。親が作ってくれた弁当を食べ、空になった弁当箱を持ち帰る。このささやかな日常がどれほど幸せなことなのか--。黒焦げの「滋君のお弁当箱」は、人々に伝える役割を与えられたのだ。
原爆投下から66年後に起こった東日本大震災。原爆資料館のように、この未曽有の被害を伝える「震災資料館」ができたら、と願う。
今、被災地では、破壊された建物や品々はがれきとして撤去や処分が進められている。被災から立ち直り、生活を取り戻す作業と同時に、この被害をどんな形で後世に伝えるのかについても検討できないだろうか。津波が押し寄せた跡が残る建物の壁や柱。押し流された大切な品々。この大震災を映像や写真、文字で記録することは大切だが、被災のつめ跡を刻む建造物や品々の「訴える力」は別格だ。
地震の直後から「早く逃げて下さい」と防災無線で声を振り絞り、津波にのまれた宮城県南三陸町役場の若い女性職員がいた。無線放送設備のある3階建ての防災対策庁舎は激しく損壊し、まだ取り壊すのか保存するのか決まっていない。建物が残せなくても、彼女の声を流し続けたスピーカーだけでも被災資料として保存できないか。
原爆資料館には戦後66年を経た今も、被爆者や遺族から品物の寄贈がある。東日本大震災でも、被災者が大事にとっておいた「思い出の品」を、後世に役立てたいと思った時、資料館はその受け皿にもなる。被災資料の保存は、犠牲になった人々の生きた証しを残すことでもある。「滋君のお弁当箱」のように、歳月や国境を超えて人々の心を揺さぶり続けるはずだ。
◇幻の原爆資料展
広島の被爆資料は結局、終戦50年の年にスミソニアン博物館で展示されることはなかった。原爆投下に始まった冷戦下の核時代を検証する企画展は、米国内で議会や退役軍人団体の猛反発を招き、同博物館は計画を断念。批判を鎮静化させるため、博物館長が引責辞任した。
(毎日新聞 2011年6月3日)
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