2012年8月14日火曜日

伊方原発に米軍機が墜落した

フロリダで事故、ニューメキシコでも住民の反対で演習延期に続いて、ハワイの2空港でもオスプレイの訓練中止のニュースが。米軍はオスプレイの沖縄配備を強行しようとしているが、米国内から追い出された厄介者の受け皿(演習場)は、もはや沖縄と日本にしかないのが本音なのかも?

そこでフト「日本列島には貴方が売りつけた原発が54基もありますので」と、原発上空を飛ぶオスプレイを思った。

アメリカ本土では原発上空を航空機が飛ぶことは禁止されていて、原発周辺には地対空ミサイルまで配備されているらしいが、おそらく属国日本に対してはそんなことはお構いなしだろうと調べてみたら、事実そうだった。そればかりか、すでに米軍は日本の原発上空で演習を行っていて事故まで起こしていたのだ。

24年前の1988年6月25日に、伊方原発(愛媛県伊方町)直近で米軍普天間基地所属の海兵隊輸送ヘリコプター(オスプレイはこの後継機)が墜落した。瀬戸内海方面からきたヘリコプターが伊方原発を超え、原発のすぐ南側の山の斜面に激突、反動で山の反対側へ落下した。原発側に落下していたら大惨事は免れなかっただろう。原子炉を直撃しなくても送電線や電源施設にダメージを与えるだけでも大事故に直結することは、福島第一原発事故が証明済みである。

墜落した伊方原発周辺の山頂の標高150m前後というから、かなりの低空で演習飛行していた事がわかる。海兵隊の輸送ヘリの訓練内容は、わずかな平地に兵員を強襲上陸させるので、かなりの低空でないと訓練の意味がないというわけだ。民間機はもちろん自衛隊機がこの高度を飛んだら大問題になる。この原発の周辺ではこれまでに幾度となく米軍機が墜落もしくは不時着している。さらに「原発は上空から目立つので、訓練の標的にされやすい」という驚くべき証言まである。

まさに「米軍は日本を守ってくれる」のでなく、米軍が日本の国土を傍若無人に飛び回り、日本の国民を再び原発事故の恐怖にさらそうとする張本人であることが分かる。

2012年8月7日火曜日

息子の弁当箱

東日本大震災で亡くなった息子の弁当箱を発見した両親
 昨年4月、毎日新聞のニュースサイト「毎日jp」に、東日本大震災で亡くなった息子の弁当箱を、がれきの中から発見した両親の記事が掲載された。
 母親は弁当箱が空なのを確認し、「きれいに食べている」と嗚咽(おえつ)したという。まだ24歳の息子を突然亡くした失意のどん底でも、最後にちゃんとご飯が食べられたかどうかが気になり、空の弁当箱に安堵(あんど)する。その親心に胸が締め付けられ、17年前に取材したある弁当箱を巡る物語を思い出した。
 1945年8月6日に原子爆弾が投下された広島の惨状を伝える広島市の「広島平和記念資料館」(原爆資料館)に展示されている「滋君のお弁当箱」だ。
滋君のお弁当箱(広島原爆資料館保管)
 93年から94年にかけて、米国のスミソニアン協会航空宇宙博物館は、95年の太平洋戦争終戦50年に向けて、記念企画展の準備を進めていた。企画展は原爆の開発から投下までの経過を追うもので、スミソニアン博物館は広島市に原爆資料館が保管する被爆資料の貸し出しを依頼していた。広島に来て被爆資料を見学したスミソニアン博物館の担当者が、強く貸し出しを望んだのが「シゲルズ ランチボックス」(滋君のお弁当箱)だった。
 建物疎開に動員されていた旧制中学2年の折免(おりめん)滋君(当時13歳)は、爆心地から約500メートルの所で同級生らとともに被爆し、母親が作った弁当をおなかに抱えて死んだ。中身がきれいに詰まったまま真っ黒に炭化した弁当箱は、原爆資料館の中でも最もよく知られた展示品の一つだ。
 「滋君のお弁箱が海を渡る」とマスメディアは色めき立ち、当時、広島支局に勤務していた私も貸し出しが決まるのを待ち望んだ。しかし広島市は「被爆者が反対している」となかなか決断しない。反核運動でよくメディアに登場する人々の顔が浮かんだ。「いったい誰が反対しているのか」。原爆資料館に取材すると意外な答えが返ってきた。弁当箱を寄贈した滋君の母シゲコさん(当時86歳、故人)だったのだ。
 反対の理由を聞こうと自宅を訪れた私に、高齢で弱った体から言葉を絞り出すように語った。「育ち盛りの子どもが弁当も食べられんと殺された。あの弁当箱は私にとって滋そのもの。滋を敵国で見せ物にするのは止めてください」
 シゲコさんは原爆で焼け野原になった街を歩き回り、骨だけになった滋君を見つけた。息子だと分かったのは、骨の下の弁当箱に「折免」と書いてあったからだ。
 涙ながらに語るシゲコさんを見て、米国を「ピカを落とした国」と敵視する被爆者を、どこかで「時代遅れ」と思っていた自分を恥じた。息子を失った母親の無念をないがしろにして大博物館の企画に参画しても、それが「ヒロシマの心」と言えるはずがないとようやく気付いたのだ。
 94年1月、「記者の目」でこの話を書いたが、その中で書けなかったことがある。シゲコさんが大切な弁当箱を原爆資料館に寄贈した動機だ。てっきり核兵器廃絶を訴えるためだと思っていたが、もっと母親らしい素朴な感情からだった。
 シゲコさんは、弁当箱をずっと自宅の神棚に飾っていた。終戦後、世の中が豊かになるにつれ、近所の川には食べ物がたくさん捨てられるようになった。「もっと食べ物を大事にしてほしい。滋は粗末な弁当も食べられず死んだのに」との思いが募り、弁当箱を神棚から降ろして原爆資料館に託す気になったのだという。親が作ってくれた弁当を食べ、空になった弁当箱を持ち帰る。このささやかな日常がどれほど幸せなことなのか--。黒焦げの「滋君のお弁当箱」は、人々に伝える役割を与えられたのだ。
 原爆投下から66年後に起こった東日本大震災。原爆資料館のように、この未曽有の被害を伝える「震災資料館」ができたら、と願う。
 今、被災地では、破壊された建物や品々はがれきとして撤去や処分が進められている。被災から立ち直り、生活を取り戻す作業と同時に、この被害をどんな形で後世に伝えるのかについても検討できないだろうか。津波が押し寄せた跡が残る建物の壁や柱。押し流された大切な品々。この大震災を映像や写真、文字で記録することは大切だが、被災のつめ跡を刻む建造物や品々の「訴える力」は別格だ。
 地震の直後から「早く逃げて下さい」と防災無線で声を振り絞り、津波にのまれた宮城県南三陸町役場の若い女性職員がいた。無線放送設備のある3階建ての防災対策庁舎は激しく損壊し、まだ取り壊すのか保存するのか決まっていない。建物が残せなくても、彼女の声を流し続けたスピーカーだけでも被災資料として保存できないか。
 原爆資料館には戦後66年を経た今も、被爆者や遺族から品物の寄贈がある。東日本大震災でも、被災者が大事にとっておいた「思い出の品」を、後世に役立てたいと思った時、資料館はその受け皿にもなる。被災資料の保存は、犠牲になった人々の生きた証しを残すことでもある。「滋君のお弁当箱」のように、歳月や国境を超えて人々の心を揺さぶり続けるはずだ。

 ◇幻の原爆資料展

 広島の被爆資料は結局、終戦50年の年にスミソニアン博物館で展示されることはなかった。原爆投下に始まった冷戦下の核時代を検証する企画展は、米国内で議会や退役軍人団体の猛反発を招き、同博物館は計画を断念。批判を鎮静化させるため、博物館長が引責辞任した。
(毎日新聞 2011年6月3日)

2012年7月23日月曜日

孫崎さんの「ごもっとも」

(本日、孫崎享さんがTwitterに投稿されていた内容を再録させて頂きました)

■WBC問題:
自民党系よりメール「先週末、WBC不参加を選手会が決断と発表。運営のMLB=米国野球界がスポンサー料など参加各国が当然享受すべき権利を、自分たちの懐へ吸い上げる条件が改善されなかったから。それぞれの国が当然受け取るべきおカネを、なぜかMLBが80%以上取る。選手会は条件改善求めたがコミッショナー達は何の手も打たず、「日本3連覇かかってる。期待にこたえないといけない」「WBCの開催は野球の普及側面」等理由に、我国選手を護るどころか、我国プロ野球をバカにした、屈辱的な条件を呑んででも参加の方向で調整すべきだと。
TPP参加の政府のよう。どんな時も米国意向に沿うべしの連盟やコミッショナー達の姿に、まさに日米関係反映。希望は選手会。参加楽しみとしながらも、こんな条件では参加できないと。健全な自尊心と誇りあれば、屈辱的な条件を呑んでまで、米国の利益だけのために開催されるこんな茶番に参加はアホらしいと、至極当然の結論。アホなコミッショナーやマスコミはここでも「従米」。普天間やオスプレイ配備では分からない国民も、この日本プロ野球とMLBの関係には「おかしいな」と思う。
健全な自尊心あれば、「なんで屈辱を受けてまで協力必要」と思うだろ。陰惨ないじめ事件も、責任を取りたくない事無かれ主義者達、権力にへつらう卑怯者たち、見て見ぬふりをし、長いものに巻かれる者たちの正体が暴かれているように感じています。羊のように従順な日本国民も、多数ではなくても真実に目覚める人たちの数は、日ごと増えていると感じています。

 ■オスプレー:
23日読売「日米安全保障条約で、米軍が日本に配備する航空機の機種変更で、日本側には拒否する権限がない」そんなことない。頭働かせて下さい。普天間に関しては「沖縄住民の負担軽減」と言う日米合意がある。オスプレーは危険增大、日米合意に反すると言えばよい。交渉は頭使うのです

■日米同盟の在り方:
在日米軍基地の有り様は地位協定で決まっている。合意出来なければ動けないようになっている。しかし某氏の示唆。地位協定には第二十八条で「この協定は安全保障条約が有効である間有効とする」となっている。他方安保条約は第十条で「十年後は、相手国に条約終了を通告でき、通告後一年で終了する」となっている。 つまり、日本側は一度現行の安保条約を破棄通知をする。その時は地位協定も同時に破棄となる。
そこで新たに同じ内容でもいいから新安保条約を結ぶ。当然米軍駐留規定の地位協定は存在していないから、改めてどこに基地を置くかを交渉出来る.交渉がまとまらなければ米軍が日本に駐留出来ないことになる。地位協定だけで交渉しようとすると米軍がOK言わない限り変更できない。しかし安保条約の改定をはさむと今と立場が180度変わる。某氏、これが岸首相の功績だという。逆に米側岸氏の影響力をそぐ必要がある。

2012年7月21日土曜日

「お笑い米軍基地」

発信箱:「基地」を笑う=大治朋子(外信部)
毎日新聞 2012年07月17日 00時13分

 沖縄で大人気のコント「お笑い米軍基地」の公演を名護市内で見た。若手芸人たちが、基地問題を辛口の風刺で笑いに変える。

観客席が最も沸いたのは「尖閣諸島」ネタだった。玩具売り場で東京都知事と同じシンタロウという名前の男の子が「尖閣諸島」のおもちゃをママにせがむ。そこに中国人らしき男たちが現れ、「尖閣」を取ろうとする。警備員が、不審船を見つけた海上保安庁のように「君たち、出て行きなさーい」と叫ぶが、なかなか出て行かない。

そして上階に入店する「アメリカさん」の登場。迷彩服の男たちがハリセンで「シンタロウ」から「中国人」まで、全員をぶったたいてこう言う。「このデパートはぁ、アメリカーがいるからもってるんじゃないのかぁ」。米国産のビーフジャーキーを買えと全員に迫り、断るとまたたたく。店員がつぶやく。「早く出て行けばいいのによ」

 そう、「デパート」は沖縄で、「アメリカさん」は米軍基地だ。米軍がいるから沖縄は安全、という「定説」を皮肉っている。

笑いの底に見え隠れするのは深い怒りだ。東京で「売れない芸人」だった那覇市出身の小波津(こはつ)正光さん(37)がシリーズを思いついたきっかけは、04年夏の沖縄国際大への米軍ヘリ墜落事故だった。当時、本土はアテネ五輪に興じていた。「アテネで聖火が燃え上がっていたころ、沖縄ではヘリが燃え上がってた」。思わず口にしたネタが大うけしたという。

一昨年の公演もビデオで見たが、笑ったのは「缶首相」が米軍普天間飛行場の移設先をダーツで決めるネタ。的の大半は名護市「辺野古」と書かれ、「県外」の幅はとても狭い。沖縄県民が「けんがい、けんがい」と手拍子で応援するが、命中しない。

怒りを笑いで包む。沖縄の知恵とたくましさを見た思いがした。
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さっそく「お笑い米軍基地」のブログを拝見しましたら、そこにはあの「オスプレイ」が新ネタとして登場するらしく・・

説明では「今回舞台で使用する目玉小道具のオスプレイです。「お笑い米軍基地」舞台専属のセット職人・よっちゃんに今回も依頼しました。渾身の作品です。職人曰く、「これは墜落しないよ。俺の目の黒いうちは絶対墜落させない」。こう言っておりますが、コントをやる芸人達は本番中、墜落しないか心配しております。」とのこと・・早く基地がなくなり、ネタ切れする日が来ることを!

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この「お笑い米軍基地」とは関係ありませんが、圧制下のソ連でアネクドートと呼ばれる風刺小話が流行していたことを思い出しました。ひとつだけ紹介します。

赤の広場で、酔っ払いが、「ブレジネフはバカだ!」と叫んでいた。すぐにKGBがやって来て、酔っ払いを逮捕し、懲役22年を言い渡した。国家侮辱罪で2年、国家機密漏洩罪で20年・・

2012年7月11日水曜日

「勝手に飛び立つ(?)」オスプレイ


飛行機の事故には、パイロットの操縦ミスや機体の金属疲労などいろんな原因があるが、「勝手に離陸してしまった」などというのは初耳だ!ひょっとしたらオスプレイは、人類初の人口知能を備えた「画期的航空機」なのかもしれない(笑)!しかし、それが元で保有機数の加減計算さえ合わないのだから、やはり「想定外の欠陥機」と言わざるを得ない。

この事故機も「勝手に離陸した」のだろうか?
【琉球新報:2012年7月11日「社説」】
「墜落事故隠し オスプレイは飛ぶ資格なし」

この飛行機に果たして空を飛ぶ資格があるのだろうか。米軍普天間飛行場に配備予定の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイのことだ。2006年3月に米ノースカロライナ州で乗員が飛行準備中に突然離陸を始め、約9メートルの高さまで上昇後、地面に落下して機体の一部が損壊する事故が起きていた。
修理費は約706万8千ドルかかっており、損害200万ドル以上のクラスAに該当し、本来なら公表されるべき事故だ。しかし海兵隊は「機体は離陸するはずではなかった」との理由で公表から除外していた。「事故隠し」以外の何物でもない。
そもそも飛行させる意思がなかったのに、機体が勝手に離陸してしまう航空機など存在するのだろうか。こんな調子で「構造的な欠陥がない」などと言われて、誰が信じることができようか。
10年に起きたオスプレイ墜落事故をめぐり「機体に問題があった」との調査報告を空軍上層部が「人為的ミス」に改ざんするよう圧力を掛けていたことも分かっている。
米国防総省が今年4月と6月に起きた2件の墜落事故について「機体に問題はない」と強弁し、事態の収拾を図っているが、説得力のある根拠を示していない。
伝えられていなかった情報はほかにもある。06~11年に発生の損害200万ドル未満やけが人発生の未公表のBCクラスの事故が28件起きていた。公表のAクラスの事故2件と合わせれば30件に上る。それ以前の開発段階には4件の墜落事故を起こし、乗員30人が死亡している。配備されているはずの機体が40機も所在不明との市民団体の情報もある。一体どこに安全を見いだせばいいだろう。
今年発生した2件の墜落事故について森本敏防衛大臣はこれまで「機体が安全かどうか、見たことも乗ったこともないので、提供された情報以外に知識を持ち合わせていない」と、ひとごとのように説明している。
06年の未公表事故、BCクラスの事故件数、事故報告の「人為的ミス」との改ざん圧力の事実は琉球新報がさまざまな情報を基に報道して明らかにした。しかし日米両政府はいまだにこの事実の十分な説明をしておらず、無責任だ。日米は都合の悪い情報を隠しても無駄だ。事故を起こす可能性のあるオスプレイが沖縄の上空を飛行することなど許されないと悟るべきだ。

2012年7月10日火曜日

「数が合わない!」オスプレイ


オスプレイの事故は、表向き8件と報告されているが、どうやらそれも「氷山の一角」のようで、未報告の事故が山とありそうだ。09年までに、米海兵隊に納入された145機に対し、海兵隊は保有機数を105機と報告しており、この時点で実に40機ものオスプレイが所在不明になっている。

【琉球新報:米ワシントン9日=松堂秀樹本紙特派員】

米軍普天間飛行場に配備予定の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが、2006年3月に米東南部ノースカロライナ州で飛行準備中に突然上昇し、地面にたたきつけられていたことが分かった。
現地紙アマリロ・グローブニュースなどが報じていた。米雑誌ワイアードによると、修理費はクラスAの事故(200万ドル以上)に分類される約706万8千ドル(約8億2800万円=当時)かかったが、海兵隊は「機体は離陸するはずではなかった」との理由で事故に含めなかった。さらに、オスプレイの事故機を含む機体数をめぐり、09年の米議会の調査に海兵隊が回答を繰り返し拒否するなど、「事故隠し」の疑惑が生じている。
オスプレイは09年6月の米議会の調査で、それまで予算付けし海兵隊に納入されたはずの145機のうち、海兵隊へのヒアリングによる保有数を「105機」と記載。40機が所在不明になっており、過去の事故が隠ぺいされている疑いもある。
アマリロ紙などによると、事故は06年3月27日に海兵隊ニューリバー基地(ノースカロライナ州)で発生。3人の乗員が機内で飛行に向けた準備をしていたところ、機体が突然上昇、約9メートルの高さまで上がって地面にたたきつけられた。けが人はなかったが、右翼と右側のエンジンが損壊した。ワイアード誌によると、飛行予定がなかったとの理由で事故の統計から除外された。
米政府活動に関する市民団体サイト「AllGov.com」が09年7月に報じたところによると、海兵航空団トップのジョージ・トラウトマン中将(当時)は同年5月に海兵隊のオスプレイ保有数を「91機」と証言。だが、同中将はその1年前に100機目のオスプレイ取得を祝う式典に参加していた。
こうしたことから、事故機の数などに疑念を強めた米下院監視・政府改革委員会が追及を続け、09年6月に105機の保有を確認。だが、議会がこれまで予算化した機体数は155機で、同月までに145機が納入されているはずだった。同サイトは40機の所在不明について「オスプレイは常に軍にとって問題児のようだ」とやゆした。同委員会も各委員に当てた書簡で「オスプレイを何機保有しているかという単純な質問に対する回答を得るのに大きな困難にぶつかった」と不信感をあらわにしており、今後も保有数などをめぐって議論が続きそうだ。

2012年7月4日水曜日

これじゃ減らんわ!米兵犯罪


怖そうな兄チャンに車を傷付けられたけど、「来てください」との連絡で、交番に行ってみると、そこにはさらに怖い親分がいて・・言われるままに英語の「示談書」に署名したが、写しはナシ。それで一件落着?実は泣き寝入りの強要・・・それってどこの国の話し?法律は?と考え込んでしまうようなことが、沖縄県では毎日のように起こっているという。

米兵のひき逃げ死亡事故などの小さい記事に「日本政府は何してる?」って憤慨した記憶はあるが、何のことはない・・「本土復帰」後40年たっても、警察もマスコミもみんなグルになって、沖縄県民の犠牲にそっぽを向き、米兵の犯罪に手を貸していたのだった。これでは米兵の犯罪は減るはずがない。

まるで県民に刃物をちらつかせているとしか見えない日米両政府による「オスプレイ配備」も、これまで米兵犯罪=異民族による蛮行を黙認してきた警察・マスコミからすれば、とりたてて騒ぐほどのことではないのかも知れない。


【発信箱:報道されない「示談」】=大治朋子(外信部)毎日新聞 2012年07月03日 00時24分

沖縄に暮らして実感したのは、米兵らによる犯罪の多さだ。

沖縄県警が昨年1年間に摘発した米軍人・軍属らの刑法犯件数は42件。前年比で約4割減、過去10年で最少というが、それでも1カ月に3.5件、10日に1回のペースで起きている。

2006年横須賀市で起こった米兵の強盗殺人事件に抗議
例えば2月に起きた器物損壊事件。酒に酔った海兵隊員が、金武町の学校などに駐車されていた車11台を破壊した。

驚いたのは、その後の「示談交渉」。海兵隊の法務担当は被害者の学生らを交番に呼び出し、示談書へのサインを求めた。奥の部屋には警官がいたが、「何をしているのか確認しなかった」。学生らは交番だったので「警察の仲介だと思った」という。

「示談」のやり方もおかしかった。米軍の法務担当者は英語の示談書などを用意し署名させたが、それを学生らに渡さなかった。だから被害者たちは「サインはしたが、内容はよく思い出せない」。そんな理不尽が繰り返されてきた。

学校側は報道機関に一斉に情報提供したが、地元紙の琉球新報以外はほとんど報じなかった。たまたまニュースが多かったのか、あるいは人手不足だったのか。本紙はウェブサイトで新報の記事を転載した。

報道を受け、米軍側は今後交番を使わないこと、示談書を被害者にも渡すことを約束し謝罪した。警察も「交番を使用しないよう要請した」と記者発表した。それでも多くのメディアは、沈黙した。「沖縄ではありがちな話」と黙殺したのかもしれない。

米兵らの刑法犯については、身柄の引き渡しを制限する日米地位協定があり、問題視されている。民事の世界でも、いまだ米国統治下のような「不条理」がまかり通る。

それを告発するのがメディアの役割だと、改めて自覚したい。