たしかに、あのポスターをみるだけでも、並の風貌ではない。そして革命家としての生涯も・・
チェ・ゲバラのことを少し書きたい。以前にどこかで、半世紀ほど前、ゲバラが来日時に、こっそり抜け出し夜行列車で広島を訪れたという話しを聞いたことがあった。カストロとともに「アメリカの裏庭」から蜂起し、革命を成功させ、それに飽き足りることなく「第二第三のベトナムを」と、南米諸国の山岳地帯で死ぬまで、ゲリラとして戦い続けたゲバラ。その彼が、アメリカの「非道の象徴」である「ヒロシマ」を一目見ておきたかったのだろうと思わせるような逸話ではあったが、どうやら広島行きは「お忍び」ではなく、「公式訪問」だったようである。
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本を訪れた。その年の1月1日に反米革命を成功させたばかりの彼らは、当時の日本政府・マスコミにとっても「厄介者」で、国民には余り知られたくない、知らせたくない「過激派」であったのだろう。『朝日新聞』が「カストロ・ヒゲ」と揶揄同然に報じたのみで、いわば報道管制下のお迎えだった。
それでも愛知県のトヨタ自動車工場、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場、久保田鉄工堺工場では農業機械の製作を見学し、通商のために池田勇人通産相と会談も行っている。
7月24日大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知ってゲバラは、翌日、予定を変更して駐日大使らを伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談した。そのいきさつは、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、昭和47年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。
いくら「過激派」といえども、使節団代表としてのゲバラが、受け入れ国の意向を無視し、無断で「掟破り」をやったとは考えにくい。夜行列車で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのはどうみても不自然でもあり、どうやら側近の記憶違いもしくは脚色のようだ。だが、それがピタリと絵になるゲバラだからこそ、今日まで「伝説」として生き残っているのだろう。
ヒロシマ訪問時、ゲバラは記者に「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたと言う。ゲバラが帰国後、広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげていると言う。
なお、娘のアレイダ・ゲバラさんも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている。最近では、5月11日に、ゲバラの生涯を描いた映画で主演したデル・トロさんも、広島の原爆資料館などを訪問している。
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